長く視覚芸術の楽しみ方がわからないと思っていた。絵画や写真は読み解くものだと思い込んでいたと言い換えても良い。写真を撮影するのは単にメモを書きつけるような意味しか持っていなかった。ところが仕事で写真を多く見る機会が増え(写真を使う平面デザインも同様)、自動車に関するニュースや個人運営のブログの画像を見る機会が増え、「見る」ことに慣れてくると少し考えが変わってきた。自分なりに「写真」の見方がわかってきたように思う。かつての筆者は「写真とは、見たとおりのものが写っていなければならない」と思い込んでいたのだ。どんな写真も事実がありのままに写されていると思っていた。しかしそれは違う。最終的に人目に晒される状態になった「写真という作品」は、撮影者が「こう見えてほしい/こう見えるべき」という思いに忠実になるよう「加工」されているのだ。それは場合によってはカメラやレンズの選択の段階から始まっている。クルマブログで見かけるあのカッコイイ写真は、その日その時そのような光景があったわけではなく(被写体としてはもちろんそこにあったのだが)、「あの光景はこう見えるべきだ」という撮影者の感性によって様々に加工されているのだ。※
そのことに気が付くと、写真を撮るということが俄然楽しくなってきた。カメラ、あるいはカメラメーカーによる仕上がりの差というものも体感できるようになってきた。こうなると、その日の天気や撮りたいものに合わせてカメラを選ぶということの意味もわかってくる。筆者の場合は単にキャノンかオリンパスかの二択でしかないが。
おいおい、これはクルマのブログじゃないのかよ!と読むのをやめようかと思っているみなさん、ようやくここからが本題です。さて、「写真は脳内風景の現実化の手段」と思い定めると、なんでも撮ってみたくなるのだが、やはり「あ、これはきれいな景色だな」とか「初めて見た!」的なものを収めたくなる。※※ そうなるとツーリングで出かけた先で感動した景色を写真に撮りたくなるのは必定である。そう思ってツーリングには必ずカメラを持ち出すし、場合によっては写真を撮るためにクルマを出すというケースすらあるようになった。
ところがここで二律背反が起こる。クルマを走らせていて調子が良い時は、当然停まりたくない。調子が良くなるということは、クルマの運転操作がうまく行っていて、しかも美しい風景に遭遇するからだ。しかしその見知らぬ美しい風景を写真に撮ろうと思ったら、クルマを停めなければならない。
これは本当に困った問題だ。今のところそういう迷いが発生した時は、クルマを運転する快感の方を優先するようにしている。この二律背反をやわらげるのはどうやら「時間的余裕を持つ」しかないようだ。写真を撮るために道端の安全な場所にクルマを停める、撮影する、ふたたび周囲の風景をぐるっと見回してみる、クルマに乗り込み正しい運転姿勢が取れているか確認し、走り出す。こういう手順を慌ただしく流さず、噛みしめつつ行うには、約束の時間などの時間的束縛は邪魔なのだ。そこまではっきりとした制約じゃなくても、「●時までには▼▼に到着していたいな」のような脳内スケジュールですらノイズになる。そうなると現状での最適解は「運転を楽しむためのツーリング」と「写真撮影のためのツーリング」を分けて行うことだ。まぁ贅沢な話ですわ。写真の練習なら自宅の近所を散歩するだけでも良いわけだし。つまりは単にツーリングに出かける口実が増えただけだったというオチ。
もうすぐ仙台も梅雨入りするだろう。走りに行くモチベーションが下がるし、屋外でカメラを構えるのが面倒くさくなる。嗚呼。
※そのことを決定的に気付かせてくれたのが阿部明子という写真家の作品だ。http://abeakiko.com
※※そもそも筆者が音楽を一生懸命作ろうと思った動機も、美しいものを見た感動を音楽に変換したいからなのだった。今は違う動機が優先されているけれど。