東日本大震災を宮城県仙台市で体験した我が身としては、毎年3月11日に追悼だのなんだのと、そんなの「言われんでもわかっとるわ」である。しかしでは震災復興に日々寄与しているかと問われれば、そんなことはまったくなくて、どうにも心の収まりが悪い。毎年3月11日はそういう日である。あの日を思い返してみれば、揺れた!大変だ!職場がめちゃくちゃだ!どうやって家に帰ろう……、であり、帰ったら帰ったで家の中めちゃくちゃだ!暗くなってきた、晩飯どうしよう!なんとか食った!とりあえず寝よう。全ては明日からだ……と、ジェットコースターのような午後だった。しかし本当に大変だったのは揺れた後に襲ってきた津波であり、数え切れないほどの余震であり、無力感に苛まれた翌12日からだったように思う。そうなのだ。2021年の今日は2011年3月12日から始まったのだ。そう考えると、少なくとも津波の被害を受けなかった筆者にとっては、震災被害とは2011年3月12日以降連綿と続く日常生活のあらゆるものに常に寄り添っている、表裏一体のものなのだ。
2021年3月12日に宮城県南、海沿いの町亘理町・山元町に出かけた。仙台市街地を通り抜け、名取市閖上からK10をひたすら南下する。10年云々は関係ない。そしてそうした海沿いの県道沿線には、やっぱり無人の荒野が広がっているのだった。
名取市下増田。
仙台空港滑走路のすぐわき
笠野避難丘公園と言う名の
広場と盛土の丘
別にこういう荒涼とした場所を狙って撮影・掲載しているのではなく、仙台市、名取市、亘理町、山元町、県南の海沿いはずぅっとこんな調子だ。
これら画像の周辺地域は居住禁止区域に指定されていたりするだろうし、さしあたって急いで建造しなければならない建物もないのだろう。それは理解できる。しかし10年経ってもまだ道路を整備していたり、水道・下水道施設の再建だったりをしている現実があり、同時に莫大なお金をつぎ込んでオリンピックを国は開催しようとしている。これまでそういう現実を考えるたびに、政治や行政への恨みつらみを思ってきたが、今回の亘理・山元行でスイッチが切り替わった。
これは自分が「誰か任せ」にしてきた結果なのだった。この荒野を放置しているのは自分なのだった。恥ずかしい。
福島県との県境まで南下し、角田市・村田町を経由して帰ってきた。山元、角田、村田の県道、中でもK44小斉峠はたいそう楽しかったが、ヘラヘラしながら書くのは相応しくないように思うので省略。